ノストラダムスって言えば1999年7の月とか言う予言が今や懐かしく思い出されます。
ちびまるこちゃんでも結構話題になったしね!
へっ、当たらなかったじゃーん♪と思われた方も少なくはないはず!
さすが、予言なんかやっぱり、ガセ?とか、思われることなかれ!!
ノストラダムスの予言は当たっているのですから!
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ノストラダムス。本名、ミシェル=ド・ノートリダムは、モンペリエ大学で医学を学んだ本業はお医者様であらせられます。然しながら、早くより、占星術師、予言者としても名をはせていました。
そして、王妃カトリーヌが彼を宮廷へ招聘します。謁見の内容は知られていませんが、彼女はノストラダムスにお熱を上げてしまい、お抱え占い師として彼を召抱えます。
母親としてまず知りたく思うのは、自分の子供の行く末でありましょう。
ノストラダムスは母親に、こう託宣しました。
「三人の息子は、一つの玉座に上るだろう」
――喜ばしいといえば喜ばしいけれど不吉といえば、余りに不吉な予言である事には違いありません。もしも、長男が国王として、きちんと国を治め、そして、王妃との間に息子をこしらえ、そして其の息子と順当に王位継承者に継がせていくならば、次男以下の子供が、王位継承リレーに入り込む余地は全くありません。
因みに、長男フランソワの王妃はかの、メアリー・スチュアート。ほんっと、そうそうたるメンバーですね。実際、15歳で即位したフランソワ2世は、生来病弱で、幼い頃から吹き出物と中耳炎に苦しみ、性格も暗くて殆ど精神薄弱に近いような子供だったそうです。
とまれ、フランソワ2世がなくなり、シャルル、アンリが国王位を継承していきますがノストラダムスとは関係なくなるので、この辺りは次回に回します。
ノストラダムスの予言は抽象的過ぎて、どのようにでも解釈できるじゃん!と、言う予言が多いのですが…。ドンピシャ、ものっそい的中振り!!と、言うのが一つあります。
そして其の予言が的中した事によりカトリーヌの人生も大きく変わります。
さて、その予言がどのようなものだったかといいますと
「若き獅子は老人に打ち勝たん
戦の庭にて一騎打ちの末
黄金の檻の眼を抉り抜かん
傷は二つ、さらに酷き死を死なん
舞台は宮廷の祝宴の場。力自慢武芸自慢だった国王アンリ二世は、余興として馬上槍試合でもやろうではないか!と、近衛隊長モンゴメリ伯に持ちかけます。実際はディアンヌに、力自慢をしたいという男にありがちな虚栄心ではあったのでしょうが。
アンリ二世は当時40歳。当時の平均からいくと充分な「老人」の部類に入るでしょう。
そして、祝宴の「庭」における「一騎打ち」。そして「若き獅子」の勝利となる。
尤も恐ろしいのは其の死に様です。如何した弾みか試合中に隊長が振るった穂先が裂けて折れてアンリの被っていた「黄金の兜=檻」に突き刺さってしまったのです!!
王は九日間苦しむ「酷き死」を遂げました。
夫を失ったカトリーヌ。
3人の息子の摂政としていよいよ歴史の表舞台に躍り出ます。
「西洋のベスト・オブ・悪女(悪女にベストをつけるのも可笑しいかもしれませんが)を決めるとしたらだぁれ?」って聞かれたら、前述のイザボー王妃と並べて彼女の名前を出したい!
(勝手に)命名「フランスの西太后」
と、言うわけで、今回のテーマは、カトリーヌ・ド・メディチ。
アンリ二世の皇后。そしてフランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の母に当たる方です。
彼女の場合は、関係者がぶっちゃけ多すぎ…、しかもはしょるにはしょれない方々ばっかし☆なんで、何度かに分けたいと思います。
だって、近親者だけで王様が三人(!/まあ、大した王様じゃないんですが)、旦那も王様(じゃなきゃ、「王妃」じゃねーよ)!そして、王妃が一人って言うそうそうたるメンバー…。しかも、かの、ノストラダムスとも交友があるとか言うお方ですもの…!
因みに、アンリ2世は次男。父のフランソワ一世には、フランソワという皇太子がいました。つまり、カトリーヌは「王妃」になる予定ではなかったと。メディチ家は、財産こそものっそいものがあるものの、格式としては決してフランス国王の妃に相応しいものではありませんでしたし。正直、元ブルジョワで、金で成り上がった成り上がりもの、という見方が強かったのです。
然しながら、アンリの長兄フランソワが、急死した事により(マジで急死、暗殺って噂も無きにしも非ず)アンリがドーファン(王太子)となります。
正直、ちょっぴり傾いていたフランス王家(ヴァロワ朝)の財産建て直しのために、金持ちの娘を息子の嫁さんにしなければー…ってなもんで。
其処に愛はあるのかい!?
あるわけねーよ、所詮は政略結婚ですものー。
と、言うわけで、カトリーヌは膨大な持参金と、千人を超える召使、そして、当時は野蛮とされていたフランスに、洗練の極みであるイタリア文化を持ち込みました。(フォーク、アイスクリームは、カトリーヌがフランスに伝えたもの)。
当時14歳。政略結婚とは雖も、一生を共にする夫に心をときめかせたり、甘い結婚生活を夢見たりもしたでしょう。然しながら、其の甘い生活の夢なんぞは、あっさりと消え去ります。
アンリには、心より愛する女性が既にいたのです!
当代一の美女!美女の中の美女!!
でも、この人も相当の悪女だと思うぞ☆な、ディアンヌ・ド・ポワチエ。(ディアヌだとか、ディアーヌだとかって言う表記もありますが、この表記が好きなので、この表記を貫きます!)
つーわけで、アンリ・ディアンヌに少しばかり焦点を当ててみましょうw
以下、若しかしたらちょっぴりえっちぃ描写(笑)もあったりなかったりするので、折り曲げておきます。
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美女↑
アンリ二世と、ディアンヌ・ド・ポワチエ。先ず特筆すべきは二人の年齢差でしょう。
なななな、なーんと!
20歳当時は結婚も出産も早かったですから、二人は、親子ほどの年齢差があったわけです。しかも、ディアンヌは、旦那と死別した未亡人(…。)
彼女と、アンリの出会いはアンリ7歳の時。諸事情あって、アンリと兄のフランソワがスペインの人質に出される時、アンリにキスしたのはディアンヌだったと伝えられています。或いは其の時の記憶が鮮烈に残っていて、人質期間、アンリはディアンヌの面影ばかり描いていた、とかだったらシャイな少年のロマンス、で片付けることができますが。
まあ、それはそれ。4年経って、フランスに帰ってきたとき、アンリは極端にナイーブな少年になっていました。それを気遣った父、フランソワ1世が、ディアンヌに彼の家庭教師(性教育係も含まれていたとかいないとか…)を命じます。
極端に内向的だったアンリも、ディアンヌには心を開き彼女が教えること(美術や、建築など)を吸収し、魅力的な青年に成長していきました。まるで、源氏物語逆ばーじょry
最初は、母としての目に近い慈愛を注いでいたディアンヌも、立派に成長した青年に熱っぽい眼を向けられては、母の顔を保ち続けるのは難しくなったようです。ディアンヌが、アンリに抱かれたのは、1538年前後だとされています。
まあ、二人はほんっとうにいちゃこらいちゃこらしていたようで…。肖像画でも分かるように、ディアンヌはたいそう美しい女性でした。其の美貌を保つために相当の努力をしていたようで。例えば、体型が崩れるからと、ベッドに横にならないで座ったまま眠ったとか、日の出前に起きて冷水での沐浴を欠かさなかったとか。おかげさまで50代になっても、20は若く見えましたというのは当時の文献の記録で一致するところ。
そして、世の恋人の心理で、アンリもディアンヌを見せびらかしたくて仕方なかったらしいです。例えば、家臣だか大使だかと謁見する時、ディアンヌを膝の上に乗せて(!)、しかも、行き成り彼女の胸元を開いては「どうだ、美しい乳房だろう?」とかやらかしていたそうです(…。)。しかもディアンヌもディアンヌで、「あん、形が崩れるからおやめになって」と婀娜っぽく返していたとか…。しかも、急にむらむらきたアンリは、やっぱり謁見中なのにディアンヌに襲い掛かり、そのままなさってしまったこともあるとか!しかも、ヤりすぎで、ソファだかベッドがぶっ壊れた事もあるとか(!!)
いや、どーなんだ、マジで。で、こんな美人の愛人がいるんだから、正直、小太りでお世辞にも美人とはいえない奥さんとの夜の生活に、アンリが気乗りするはずがなく。だとしたら何時まで経っても子供は出来ません。
しかも、当時子供が出来ない夫婦は問答無用で離婚する事ができました。そしたら、アンリは他の妃を娶ることになります。と、したら…、其の妃が、見目麗しい姫だったとしたら!アンリの寵愛は其の姫に移ってしまうかもしれません。そこで、一計を案じるディアンヌ。
この問題を解決するには「カトリーヌが懐妊すればいい」のですから、アンリを散々興奮させておいて、そうして興奮状態を持続したアンリを、カトリーヌの寝室に送り込む。そんなことをやらかしていたそうです。アンリはそそくさとカトリーヌと事を為した後、またディアンヌの寝室に戻るんだから、もう…。
そして、其のアンリとディアンヌの情事は、見てみぬ振りを決め込んでいたとしても気になるのがやっぱり妻心(当時のロイヤルマリッジの基本は「見てみぬ振り」)。こっそりと屋根裏部屋から、カトリーヌはアンリとディアンヌの情事を覗き見たとか。そりゃあもう、くんずほぐれずで…。そして、カトリーヌは侍女に涙ながらに語ります。「夫はわたくしをあんなふうにしてくれた事はありませんでしたわ…!」
これだけ、愛されているディアンヌは、政治的権力も振るいます。実際、彼女は聡明で政治的洞察力にも優れていました。そして、アンリも彼女に絶対的な信頼を置いていました。そして、しまいには、署名に、二人の名前を組み合わせた「HenriDiane」というサインまで許したって言うから…。
更に、カトリーヌが欲しがっていたシュノンソー城を与え、あらゆるところに、「HD(HenriDiane)」の紋章を彫ったと言います。愛し合うのはいいんだけどもう少し…と思うのはわたしだけじゃないはずだ。
ディアンヌの大きな誤算は、アンリがディアンヌより早く亡くなった事でしょう。順番(と、言う言い方もあれですが)から考えれば何事もなければ、ディアンヌのほうが先になくなって然るべきなのに。後述しますが、アンリは馬上試合で亡くなります。
そうなれば、結局は愛妾などは王の権力に依存するもの。そして、アンリの子供はまだ幼いため、必然的にカトリーヌが権力を持つことになります。アンリは幾度もディアンヌの名前を呼んだといいますが、カトリーヌはぴしゃりと「死に行く王は王妃のものです」と、跳ね付けます。アンリの葬儀にすら、ディアンヌは呼ばれませんでした。
そして、アンリが今際の際を彷徨っていた時、カトリーヌはアンリがディアンヌに与えたもののリストを作っており(執念だw)それを全部返還する様に迫りました。
其の時彼女は王はもう亡くなったかと聞き、まだ生きているという返答に「それでは、わたくしはまだ国王以外に従う必要は御座いませんわ」と跳ね付けたそうです。誇りなのか意地なのかは、彼女のみぞ知る、ですが。そしてアンリの崩御を知った際に全てを返還ししかも王妃に許しを請う手紙を送ったそうです(…。)
そしてその後は自分の領地であるアネに隠棲し、時代の遺物として、然しながら平和に暮らしたそうです。享年67。
そんな年でも相変わらずの美貌を誇って。
「100年戦争は、一人の悪女により幕を開き、一人の聖女により幕を閉じた」
勿論、聖女はオルレアンの乙女、ジャンヌ・ラ・ピュセルですが、件の悪女はどなたかは余り知られていないのではないかと思います。
其の悪女はシャルル六世妃、そして、シャルル七世の母、王妃イザボー・ド・バヴィエール。
しかも、「イザボー」って何よと思われるかと思いますが…、彼女の通称というか蔑称。
本当のお名前は「エリザベート」であらせられます。(ものの記憶によると)
王妃「マルゴ」が本名マルグリットであるのに関わらず、マルゴなんて蔑称で呼ばれているのと同じですな。
それは兎も角、彼女はかなり凄いって言うか、マリー・アントワネットどころか、悪妻の代表、マリア・ルイサ・デ・パルマも追い抜くほどの悪女っぷり。何せ、淫乱王妃とか呼ばれちゃってるくらいですから!
とくとご堪能あれ☆長いんで閉じます。
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悪女悪女といいますが、悪女も最初から悪女な人ばかりではなく、必要に応じて悪女になった人、結果的に悪女になった人、或いは、悪女にならざるを得なかった人と様々いると思われます。では、希代の悪女王妃、イザボーはどのパターンだったでしょうか。彼女の人生を見ていけば、自ずと答えは出ると思われます。
王妃は大体、他国の王女であるパターンが多いのですが、イザボーも、其のパターン。父は、ドイツ、バイエルン公エティエンヌ二世。ハハは、イタリアのロンバルディア地方を収める、ヴィスコンティ家の娘、タデア。因みに、彼女のドイツ語名は、エリザベート・フォン・バイエルン。フランス名に変えると「エリザベート・ド・バヴィエール」になるわけであります。
そんなイザボーは少女時代は、ミュンヘンで過ごします。そんな彼女の元に齎される縁談。
「フランスは、シャルル六世の王妃を探している。しかも、バイエルンから妻を貰うのが、なくなったシャルル5世の望みである」
そーですか。まあ、最初はイザボーのパパンは嫌がってたようですけどね。当時のフランス王室には、花嫁に世継ぎを作る能力があるか、生殖能力を侍女が確かめるなんていう野蛮極まりない習慣があったから。ふつうのパパンならいやだといいますわな。しかも、シャルル六世の縁談は正式な話ではなく、売込みであり、フランスに認められるかすら確証がないいわば口約束程度の話。
しかし、売り込みクンの説得に負けたパパンは、結局、娘をフランスに連れて行くことに同意したのです。この場合、まあ、時代が時代だから女の意見なんか無視ですわな。
イザボーは美しい娘さんでしたので、シャルル六世は一目でコロリ☆曰く
「彼女以外の人との結婚は望まない!」
此処に、フランス王妃、イザボー・ド・バヴィエールが誕生したのです。!めでたしめでたし。
しかも、シャルル六世はイザボーをとても大事にしたそうです。そして、イザボーも夫に愛に応え、非常に甲斐甲斐しく彼に仕える、正直お受け同士の結婚にはありえないほど幸せな日々を送ったようです。
――が!!
そんな甘い生活にも、終止符を打つときが来ます。
あえて言い忘れていましたが、シャルル六世のあだ名の一つに「狂気王」というのがあります。(←ヒント)
1392年八月…、シャルル6世に最初の発作が訪れます。其のまま激しい錯乱状態に陥ります。シャルル六世発狂。
そして人々はこう囁きます。
「弟ルイ公の身辺には怪しい妖術使いがいて王位を狙って国王を呪った」
ありがちな噂ではあります。しかし、一考に回復の様子を見せない夫を見捨てるかのように、ルイ公の元に走るイザボー。ルイ君は大変お盛んな男性。それが、兄貴の嫁だろうがなんだろうが、美女であるイザボーに関心を寄せないはずはないと。
旦那との甘い生活も何処へやら!イザボーは1405年ごろから、ルイと公然と過ごすようになりました。で、二人に男女関係はあるだろ!とかいわれるようになった2年前に、シャルル7世が生まれています。(ジャンヌに助けられた王様ね←シャルル7世)
そして男はもう一人!ブルゴーニュ公ジャン。父親であるフィリップ豪胆公は、シャルル六世の執政を勤め国政も担ったいわば重要人物!其の息子も、父の意思を継ぐように王位を欲しがっていました。と、言うか、オルレアン家もブルゴーニュ家も、王位継承権は持つお家なのです、念のため。
ジャンは、無怖公ともあだ名される人物で、議会で、王妃様の愛人を堂々と非難します。曰く、王妃の寵愛をいいことに国庫からお金や宝石類を奪っていたとか如何とか。根もはもあるかどうかは兎も角として、しまいには、ジャンはルイを暗殺してしまいます。ルイ退場ー、ジャン登場ーってわけですな。
ルイ君がどうなろうと、イザボーは、王室で権勢を振るうわけです。其の後ろ盾がななな、なんと、ジャン!
ジャンにとってもイザボーは利用できる相手である、という事で御座いましょうな。王妃だし。ジャンは、王太子の後見人になり、王室を牛耳るようになりました。
ルイ→ジャンと乗り換えて影響力を保持する。其の巧みさが、「淫乱王妃」と言わしめるゆえんなのでしょうが、それは余りに酷い気がしないではない。王妃の、生きる術だったには違いないし。キチガイになった王様の妻なんか、はっきり言って、強力な後ろ盾がいない限りは、誰も見向きもしません。
名前ばかりの王妃よりも、国王に愛された愛妾に宮廷雀が群がった事でも明らかだと思われます。
1411。流石にイザボーでも、美貌や輝きは喪失して、身体は異様に肥満体になったとされています。まあ、贅沢三昧の暮らしはしていたようですがって言うか、贅沢三昧だから太るんでしょ!全くもう。ジャンという、強力な支援者がいたからには違いありませんが。
しかしながら、1417年。ジャンが王太子(つまり、後のシャルル7世)の支援者により暗殺されてしまいます。この事態を知ったイザボーは怒り、復讐の炎を燃やします。わが子より愛人ってわけですね(みもふたもない)
ジャン暗殺の黒幕は王太子だと思い込んだイザボーは、王太子シャルルを、シャルル六世の子供ではない「私生児」だとして喧伝した挙句に、王国から追放するように仕向け、更には王女カトリーヌをよりによって、英国のヘンリー5世に嫁がせる事により、ヘンリー5性こそが、フランス国王の息子であると宣伝させたのです!
更に彼女はちゃっかりと、ヘンリー5世に対して「シャルル六世が存命中はフランス王を宣言しない事」「イザボーが生きている限り彼女の地位と特権を保証すること」と、確約せしめたのです。確りしてるというか何と言うか。
そして、1422年。シャルル六世が死去すると、イザボーは王太子シャルルをフランスから追放してしまいます。そして、イングランドはブルゴーニュ派(故・ジャンの一派)と提携して、1428年アルマニャック派(故・オルレアン公ルイの一派)の拠点オルレアンを包囲しました。つまり、フランス消滅の危機!!
オルレアンさえ落とせばフランス南部に一気に侵攻できて、フランスにおけるイングランドの支配を強める予定でしたが。ここでジャンヌダルクが登場して後の顛末は知ってのとおり(はしょりすぎ)
1429年にフランス国王になったシャルル7世は、1435年には、ブルゴーニュ公フィリップと和解して、アラスの寺院で正式に国王シャルル7世として認められます。
さて、アラスでのブルゴーニュ公との和解を知ったイザボーは涙を流したといわれています。其の涙は何を意味しているのか。自分の時代が終わった事に対する悲しみか、シャルル7世が戴冠し。フランスがイングランド勢力から逃れた事の喜びか或いは、憎い子供が国王になった無念か。知るのは彼女のみですが。
そして、彼女は、シャルル7世が国王となって数日後。まるで、見るべきものは見たというように息を引き取ったそうです。
「…枢機卿、王妃が「マリー・アントワネット・ド・フランス」だなどとサインしないのは、宮廷人ならみんな知っていることだろう?」
有名な首飾り事件に於ける、ロアン枢機卿へのラブレターが真っ赤な偽物だと断定付けたルイ16世陛下のお言葉は「べるばら」なりなんなり、マリー・アントワネットやフランス革命関連の本を読んだことがあるお方なら一度は目にしたことがあるでしょう。
じゃあ、王妃はなんてサインしたんだ!?つか、箸の上げ下げにもすげえもったいぶる貴族のことだもの。サインも無駄に長く仰々しいんだろうなあ、なんて思った其処の貴方!(誰。)
例えば、フルネームで「マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・オートリッシュ」とかはたまた皇女時代の「マリア・アントニア・ヨゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク・ロートリンゲン」とか。
と ん で も な い!!
その答えはルイ16世陛下と、マリー・アントワネットの結婚宣誓書にあります。
一番上は時の国王、ルイ15世のサインなのですが。ただ一言、唯一つ。
「Louis」
と、だけ。
で、ルイ16世陛下は「Louis Auguste」。つまりはファーストネーム+洗礼名。彼も国王即位後はサインを「Louis」だけに変えています。
実際結婚宣誓書の、国王一家は、殆どがファーストネーム+洗礼名のみで署名しています。
例えば、叔母様方も「マリー・アデライード」など、洗礼名を用いています。
これは決して手抜きではありません。寧ろ王族にだけ赦された誇りにすべき特権であるともいえるのです。
「宮廷で出世したいのであれば、ファーストネームだけで署名する人々と懇意になるべきだ」
宮廷における、有名な格言でもあります。
つまりは、王族は大体が、ファーストネームのみ、洗礼名のみ、或いはファーストネーム+洗礼名で署名したのです。
マリー・アントワネットも、サインは「アントワネット」或いは「マリー・アントワネット」のみでした。
態々、マリー・アントワネット・ド・フランスだなどと、署名する必要もないとも考えられるでしょう。マリー・アントワネット、或いは、アントワネット、と言えばフランスの王妃。それだけの知名度があってしかるべき女性なのですから。
また、これは、多分昔から続く、王族の特権だったと考えられます。海を渡った、ついでに言えばフランスとは恐ろしく仲の悪い、イギリスでさえも、その風習を持っているのですから。
かの、エリザベス女王も、署名は「Elizabeth」或いは「Elizabeth・R」(Rは恐らく「レジーナ/女王」の略だと思われます)のみだったらしいですから。
そんな、箸にも掛からない歴史のお話。
活発で利発だった前王太子ルイ・ジョゼフに比べると、大人しく寡黙な新王太子は余りぱっとしなかったようです。
ちなみに、ルイ16世は肥満というイメージがありますが、ンなこたァない!10代の彼はスラリとした長身の少年でした。肥満し始めるのは即位した後。20代になってからです。
ええい、コレが証拠だ!w

↑↑1776年の陛下↑↑
見た目は悪くないのでしょうけど、余り喋らないし、動作もきびきびしていない(恐らくは金糸も大きく影響していると思われます。)何か話しかけられると考え込んでしまう。
瀟洒で洒落た会話を旨とするヴェルサイユでは、「この子供は少し頭が弱いのではないか」と思われるのは無理もありません。
しかし、彼はすごく頭のいい子供でした。其れを知っているのは家庭教師のみ。飲み込みも早いし理解も早い。其れでも、歌を上手く歌えるわけではなく、さらにはダンスを上手く踊れるわけでもなく、貴婦人に気の利いた言葉一つかけられるわけでもない。頭の中は常人以上に回転しているのだけれど、其れが軽薄な宮廷人にはわからない。そんな少年でした。
そんな少年の元に嫁いでくるのがこのお姫様。

愛らしく音楽もダンスも大好き。頭の回転も速く、会話も得意。
この二人は何から何まで、正反対の夫婦でした。
まあ、お二人の夫婦生活は色々と込み入っているので、別の機会に譲るとして。
ルイ15世が亡くなったとき、ルイ16世はまだ19歳。そして王妃アントワネットはまだ18歳。
「神よ、我らを護り給え。我ら、余りに幼い身で君臨する身になりますれば」
と、二人は、先行きの不安と、まだ余りに若すぎる身で背負うことになった重責に泣いたといいます。